みなさん、こんばんは!日本共産党の手塚弘司です。今日は忘れることができない日になりそうです。安倍自民党政権が公明党と一緒になって、とんでもないことをやろうとしています。
今日、安保法制関連法案の閣議決定がされました。首相官邸前では夜遅くまで抗議行動が行われました。私は明日の朝、徳島駅前で抗議行動、午前中は地元、上板町で「安倍政権の暴走は許さない!」と街頭から訴えます。
「アメリカと一緒に戦争する国には絶対になりません!」と安倍首相は言います。安倍さんという人は嘘つきです。今までの行動を見たらわかります。騙されたらあきません。
明日は149回目の徳島金曜日行動です。「原発も戦争も反対!」の声をしっかり出そうと思います。夕方6時に徳島駅前に集まってください。今夜はここまで。おやすみなさい・・・。
今夜は亡くなった俳優の米倉さんの言葉をかみしめながら・・・。
僕の弟の名前は、ヒロユキといいます。僕が小学校四年生のときに生まれました。そのころは小学校とはいわずに、国民学校といっていました。 僕の父は戦争に行っていました。太平洋戦争の真っ最中です。 空襲といって、アメリカのB29という飛行機が毎日のように日本に爆弾を落としに来ました。夜もおちおち寝ていられません。毎晩、防空壕という地下室の中で寝ました。 地下室といっても、自分たちが堀った穴ですから、小さな小さな部屋です。僕のうちでは、畳を上げて床の下に穴を掘りました。母と僕で掘ったのです。父は戦争に行って留守なので、家族は、僕と祖母と妹と弟の五人です。五人が座ったらそれでいっぱいの穴です。 弟は生まれて間もないのですが、いつも泣かないで一人でおとなしく寝ていました。母は穴を掘りながら、ヒロユキがおとなしいから助かる、と言っていました。 そのころは食べ物が十分になかったので、母は僕たちに食べさせて、自分はあまり食べませんでした。でも弟のヒロユキには、母のお乳が食べ物です。母は自分が食べないので、お乳が出なくなりました。ヒロユキは食べるものがありません。おもゆといっておかゆのもっと薄いのを食べさせたり、やぎのミルクを遠くまで買いに行って飲ませたりしました。 でもときどき配給がありました。ミルクが一缶、それがヒロユキの大切な大切な食べ物でした、、、。 みんなにはとうていわからないでしょうが、そのころ、甘い物はぜんぜんなかったのです。あめもチョコレートもアイスクリームも、お菓子はなんにもないころなのです。食いしん坊だった僕には、甘い甘い弟のミルクは、よだれが出るほど飲みたいものでした。 母は、よく言いました。ミルクはヒロユキのご飯だから、ヒロユキはそれしか食べられないのだからと。 でも、僕はかくれて、ヒロユキの大切なミルクを盗み飲みしてしまいました。それも、何回も、、、。 僕にはそれがどんなに悪いことか、よくわかっていたのです。でも、僕は飲んでしまったのです。僕は弟がかわいくてかわいくてしかたがなかったのですが、、、、それなのに飲んでしまいました。 あまり空襲がひどくなってきたので、母は疎開しようと言いだしました。それである日、祖母と四歳の妹に留守番を頼んで、母が弟をおんぶして僕と三人で、親戚のいる田舎へ出かけました。ところが、親戚の人は、はるばる出かけてきた母と弟と僕を見るなり、うちに食べ物はないと言いました。僕たちは食べ物をもらいに行ったのではなかったのです。引っ越しの相談に行ったのに。母はそれを聞くなり、僕に帰ろうと言って、くるりと後ろを向いて帰りました。 そのときの顔を、僕は今でも忘れません。強い顔でした。でも悲しい悲しい顔でした。僕はあんなに美しい顔を見たことはありません。僕たち子供を必死で守ってくれる母の顔は、美しいです。僕はあのときのことを思うと、いつも胸がいっぱいになります。 母は行ったこともない山の中の親切な人に頼んで、やっと疎開先が決まりました。とりあえず必要な荷物だけを持って、引っ越しすることになりました。それでも荷物は馬車一台ありました。僕と母と祖母と妹、それに弟は、その馬車の荷物の上に座って、ゆらりゆらり揺られながら、朝、家を出て、南に向かって旅立ちました。福岡から南へ二十キロくらい行った、石釜と言う山あいの村です。 馬車の上で昼のおむすびを食べ、昼すぎには、きれいな渓流に沿って山路へかかりました。美しい青空、桃の花が咲く山村、橋の上からはあゆの泳ぐのが見られます。生まれて初めて見る、それは桃源郷でした。 これから始まるくるしい生活など、僕にはまだわからない年ごろでした。ですから、毎日あのあゆをとっておかずにすれば母が喜ぶだろうと思ったりして、これからの生活に胸をはずませました。 僕たちがお世話になる農家は、すぐ裏の山が頭の上におおいかぶさるような山すそにありました。その農家の庭に面した六畳間の一部屋を借りました。家の前の渓流には飛び石が対岸に続き、大雨の日はわたれません。下流の橋をわたって学校に行きました。 母は生まれて初めて田植えを手伝い、昼に出されるご飯を僕たちに残して、持って帰ってきました。 僕たち疎開者には配給もありませんので、母は自分の着物を持って行き、近所の農家の人たちにお願いして、米と交換してもらっていました。 疎開しても、ヒロユキのお乳には困りました。隣村にやぎを飼っている農家があると聞いては、母が着物をふろしきに包んで出かけました。 母の着物はなくなりました。 ヒロユキをおんぶして、僕はよく川へ遊びに出かけました。僕は弟がほしかったので、よくかわいがりました。 ヒロユキは病気になりました。僕たちの村から三里ぐらい離れた町の病院に入院しました。僕は学校から帰ると、毎日、まきと食べ物を祖母に用意してもらい、母と弟のいる病院に、バスに乗って出かけました。 十日間ぐらい入院したでしょうか。 ヒロユキは死にました。 暗い電気の下で、小さな小さな口に綿にふくませた水を飲ませた夜を、僕は忘れられません。泣きもせず、弟は静かに息をひきとりました。母と僕に見守られて、弟は死にました。病名はありません。栄養失調です、、、。 死んだ弟を母がおんぶして、僕は片手にやかん、そして片手にヒロユキの身の回りのものを入れたちいさなふろしき包みを持って、家に帰りました。 白い乾いた一本道を、三人で山の村に向かって歩き続けました。バスがありましたが、母は弟が死んでいるのでほかの人に遠慮したのでしょう、三里の道を歩きました。 空は高く高く青く澄んでいました。ブウーン、ブウーンというB29の独特のエンジンの音がして、青空にきらっきらっと機体が美しく輝いています。道にも畑にも、人影はありませんでした。歩いているのは三人だけです。 母がときどきヒロユキの顔に飛んでくるはえを手ではらいながら、言いました。「ヒロユキは幸せだった。母と兄とお医者さん、看護婦さんにみとられて死んだのだから。空襲の爆撃で死ねば、みんなばらばらで死ぬから、もっとかわいそうだった。」 家では祖母と妹が、泣いて待っていました。部屋を貸してくださっていた農家のおじいさんが、杉板を削って小さな小さな棺を作っていてくださいました。弟はその小さな小さな棺に、母と僕の手で寝かされました。小さな弟でしたが、棺が小さすぎて入りませんでした。 母が、大きくなっていたんだね、とヒロユキのひざを曲げて棺に入れました。そのとき、母は初めて泣きました。 父は、戦争に行ってすぐ生まれたヒロユキの顔を、とうとう見ないままでした。 弟が死んで九日後の八月六日に、ヒロシマに原子爆弾が落とされました。その三日後にナガサキに。 そして、六日たった一九四五年八月十五日に戦争は終わりました。 僕はひもじかったことと、弟の死は一生忘れません。