1945年8月15日 天皇の声を初めて聞いた日

戦争反対!平和が好き!

【徳島市内のデモの様子。戦争法案反対!】(画像は以前のものです)

みなさん、こんにちは!日本共産党の手塚弘司です。今日は8月15日です。70年前の今日、戦争が終わりました。あの忌まわしい戦争を繰り返してはならないと、平和憲法が作られました。憲法9条が作られました。私たちは戦後70年間、ずっと憲法を守ってきました。今、安倍自民党、公明党政権はこの平和憲法を壊して、戦争ができる国にしようとしています。絶対に許されるものではありません、全国各地で「戦争法案反対」の声があがっています。明日16日、徳島では緊急若者集会があります。私はもう若者ではありませんが、気持ちは20代のままです。元気にデモ行進に参加しようと思っています。

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川内原発が再稼働したとたんに、桜島が噴火し始めました。いえ、桜島はずっと燃え続けていましたが、今回の爆発は違います。まるで私たち人間の愚かさを怒っているような気がします。日本という国で原発を再稼働するなんて、バカなことはするな・・・と。人の命が奪われることのないように祈ります。

今日の赤旗の「潮流」を紹介します。

神様だった天皇の声がラジオから流れてきた。時代が180度変わった瞬間です。

正午の時報とともに「玉音放送」は和田信賢アナウンサーの一声から始まりました。「ただいまより重大なる放送があります」。「君が代」につづき、「終戦の詔書」を読み上げる昭和天皇の声がラジオから流れました。

「朕(ちん)深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み非常の措置を以て時局を収拾せむと欲し…」。1945年8月15日。現人神(あらひとがみ)とされ、国民から隔離されてきた天皇の声を日本人が初めて耳にした日。それは、長きにわたった戦争の終わりを告げる“降伏宣言”でした。

「熱涙垂れて止まず。この滂沱(ぼうだ)の涙はどう云う涙かと云ふ事を、自分で考へる事が出来なかった」。上着を羽織って母屋で聴いていた作家の内田百閒(ひゃっけん)は当時の心境を日記にそうつづりました。

たたき込まれた「神国日本」の敗戦を受け入れるまでの心の葛藤。しかし多くの国民が疲弊の中で聴いた「玉音」の決断は、日本を破滅へと導いてきたその国体の護持が目的でした。

東京大空襲、沖縄の地上戦、広島・長崎の原爆―。もっと早く戦争を終わらせていれば、ポツダム宣言を受諾していれば、救えたはずのたくさんの命。最高責任者の天皇をふくめた戦争指導部は国民を犠牲にしながら、泥沼の戦争をつづけたのです。

70年前のあの日。疎開していた子どもは「家に帰れる、終わったのだと思って心からにっこりした」と。そこから踏み出した戦後は、戦争の惨禍、半世紀に及んだ侵略と植民地支配の反省から生まれた、憲法9条と国民の揺るぎない平和の歩みです。

今日は阿波踊りの最終日です。徳島市内は今夜も眠らない町になるようです。今日はここまでにします。また、明日も元気にお会いしましょう。ごきげんよう・・・。

【おまけ】

今日、おもしろいものを発見してしまい、思わずカメラを向けてしまいました。おもしろいものという表現は違いますね・・・。今日、阿波市の板野郡農協へ買い物に行ったのです。野菜などうろうろ見ていて、ん?こ、こ、これは、どこかで見た顔・・・。

野菜を並べている古い過去の新聞があるんですけど、そこに私が以前、衆議院議員に徳島2区から立候補した時の写真が・・・。投票日の前日の新聞かな?

手塚弘司(51歳)と書かれています。あれから3年・・・。私は、まだまだ頑張っています

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カテゴリー: 未分類   作成者: てづかこうじ パーマリンク
てづかこうじ

てづかこうじ について

●1961年生まれ ●1979年県立板野高校卒業・鳴門信用金庫就職 ●1980年劇団ほじゃなを結成  藍住子ども劇場運営委員長、日本アマチュア演劇連盟理事、徳島演劇協会副会長  鳴門信用金庫職員組合委員長などを歴任 ●2003年徳島信用金庫を退職  日本共産党の専従に  現在、日本共産党徳島地区委員会副委員長

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